昭和54年06月20日 朝の御理解



 御理解 第92節
 『神は一体じゃによって、此の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。
あそこではおかげを受けたけれど、ここでではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。』

 いよいよ取次者が、取次者に対して厳しい御教えだと思います。信者が集まらないとか、信者が助からないというのは、おまえ自身に力がないからなんだ。と決め付けておられる感じが致します。確かに金光様を唱えて、天地金乃神様を唱えると言う事は、金光教の信心をしているみんな同じなんである。それぞれの関係がありまして、それぞれのそれこそ信心は合縁機縁というのですから、そばに教会があっても、縁が無かなきゃお参りが出来ん。合楽の方々なんかは特にそれである。
 沢山の教会を通り抜けて、合楽へ合楽へと皆さんがお参りになる。それは確かにおかげを頂くからでありましょうけれども、これでよいと言う事はない。愈々もってそれこそ神様にも夢が有るなら私にも夢が有る。もっとそれこそ夢のような大きな事を考えている。そういうおかげからいうと今の合楽の場合は、本当にささやかな事であり、ささやかな教会であると言う事になる。天地金乃神様の願いがここ合楽の教会にかけられている願いが成就する事の為に精進しなければならない。
 私は昨日から、昨日御夢を頂きました。その御夢の中から色々これは相済まん事だなぁと感じさして頂いてここん所を一つこれから改まったり、自分のものにしていかなけばいけないなぁと感じた。その中に中国の人が出てくるんです。いわゆる昔の支那ですね。昨日朝の御祈念の後に井上さん、井上太郎先生のお母さんが御夢を頂いたと言う。その御夢の中にも中国が出てくるんです。
 井上太郎先生の頂いてる御夢の中にも中国が出てくるんです。中国と言う事に愈々何か、私井上さん井上先生こう関連があるなと思うて、色々考えさして頂いた。井上さんが頂いておられるのは、どんなんかと言うと「沢山なミミズ、ミミズの培養をやっている。それを中国に輸出する」というお知らせであった。井上さんいうならば、井上さん一家をあげて修行の真っ最中。だから修行の真っ最中という時に。
 昨日頂く様にそれこそ「花で勝負する」と言う様な心の喜び、心の花を頂かなければならない時だよと。しるしい時に周囲ばっかりみて信心はなかでも、あげんおかげ頂きござるといったものが、見える様な事では出来ん。自分の心の中に喜びが今こそ愈々蓄積していっている事を喜ばせてもらう為には、本当に自分の心に喜びでいき、愈々本心の玉を磨かにゃあならん。愈々日々の改まりを大事にしなければならない。
 もうこれが本当だと分かったら、それに切り替え切り替えしながら信心を進めてゆく時と。ミミズと言えばあれはね。鯉という御徳という川の魚では最高と言われるが、魚を釣る為にミミズがいるだけでなく、ミミズというのは、非常に土壌を素晴らしくするんだそうですね。土を素晴らしくする。ここでいわれる土の信心、どんなに土の信心と言うても不毛の地であってはならないと言う事です。
 蒔けども耕せども、芽をきらんと言う事では生きない。そういう土地に例えばミミズを飼いますと、このミミズが大変素晴らしい土地にする働きがあるんだそうです。沢山の人が助かる事の為に沢山な、言うならば土壌が、おかげの場というものが立派な、何を蒔いても見事にはえる、花が咲き実が実ると言う様なおかげを頂くその前提として今こそ、愈々井上一家にそういう働きが起こっている時であろう。
 大事にしなければいけません。「本当に大坪さんこんな難儀な中に本当にあなたが言いなさる事が有難いとですか」と人が言うた。私が修行中に本当に有難かったんです。だからそういう苦しい中に、それこそ活き活きとしたみずみずしい喜びが頂けるような信心をさせて頂かないといけません。日田の綾部さん所に書いて差し上げている色紙の中に、「御道の信心は、何かが起こってくる。その起こってきたことをおかげにしていくのが御道の信心じゃあ」という意味の事が書いてある。
 何にも来なかったら信心が進まん。それこそ山に登って、突然猪が飛び込び出してきたら、ビックリ仰天しなければならない。けれども猟人が鉄砲をかついで猪を獲ろう思うて登った。猟師ならば早く猪が出て来んかなと思うて、それこそ迎え撃つ気持ちがいつもあるからだ。御道の信心は何かがあったら、必ずお徳を受けるチャンス力を受けるチャンスだから、それをドッコイと受けておかげにもしていかなけばならん、力にもしてかなければならないと言うのです、ね。姿勢が大事。
 本当にしるしい、しるしいで通り抜けて、それで例えばおかげの世界に入れても、それはおかげの世界に入れたというだけで、徳も力も受けられない事になる。徳を受けなければ、力を受けなければ本当のおかげにはならない。「守り守りの力」と言うのはそいう事だと思う。だから守り守りだけではない、信者一人一人がちからを受けなければならないのです。私が頂いた御夢というのは『中国から何か使節団が来ている。青壮年といった感じの人達でしょう四、五十名位で支那服をキチッと着て。
 そうして日本の偉い人に、何か使節団の言葉を述べているんですね、支那語中国語で。所が日本の人は分からんから、私が少し中国語ができるので、通訳をしてくれというわけである。私もそこに分からんけれども夢の中で忘れておる。しかし大体の事は分かったから「とにかく、これからどうぞよろしゅう、日本と中国と仲良くやっていきましょう」という意味の事を、分かった所だけを通訳した。それに対して日本の偉いと感じる人が、又、日本人ですから日本語で中国の人に、それに対して挨拶をしておる。
 所が中国の人に分からんもんですから「私が言った事を取り次いで下さい」とこう言われます。所がドッコイ私は日本語だからと思って、あぁもうろうと聞いているもんですから、何ば言わっしゃったか、迂闊にしとったわけです。横に繁雄さんがおんなさったから「あの人どう言う事言いなさったかなあ」と聞きよるとこですもの、繁雄さんもようと覚えてない風で、「えぇさぁ私もようと覚えてない」とこう言いなさる。大体日本語だから分かっとらにゃならんはずでしょう。
  隅から隅まで分かってならんばってん言うならば、うすらぱあぁと聞いてるからどげん聞いたか分からん。どうして言いよりなさるか分からない』という所で目が覚めた。それもそう考えなかったけれど中国、中国というのが井上さん、井上先生と私と皆が中国に関わっているもんですから、やっぱり考えざるを得なかった。中国というのはあのう結局外人でもありますけれども、信心の無い人達それでも信心を求める気はある人達。朝鮮人のお知らせを頂くとね、朝の鮮やかさという意味で頂きますよね。
 中国の場合は信心は少し関心は持っている。中国の人は日本に関心を持っているけどそれがそうに、日本に帰依してしまっておるというわけではないけれども、が、だからこそここに中国の人が言う事、そして日本の人が言っている事を取り結んでやらなればならないのに、中国の人はどうやら、こうやら日本の方に伝える事が出来たけれども、日本人の挨拶の方はどんな事になったか忘れてしまっている。というてもう一遍言って下さいと言うわけにも行かず、困っている所で目が覚めた。
 今日の御理解にこうやって当てはめて考えさして頂くと、それこそ初めてお参りをして来たおかげを求めてくる人は耳そばたてて、よく聞くでしょうね。稽古でも皆さんここで信心の稽古をなさっておられる人達の、うすらぱぁと聞いおる事だろうと思うた。反対に皆さんの場合でもいいいですよ。親先生の前じゃから「今日の御理解どげんな御理解だったの?」というとな、うすらぱぁとしか聞いてない証拠です。ね、それでは皆さんが家に帰っても示現活動も出来ない。
 又皆さんの仕事の現場で取り次ぐ事も出来ない。そいう意味で黒板に毎日その日の前日の御理解の抜粋して、そして素晴らしい表現力をもって修行生の方々が発表して黒板に書いているのですから、あれをもう一遍読み返して御覧なさい。時間があるのなら写して帰りなさい。それ位のものがなからなければ、「本当のあいよかけよ」と言う事になってこない。親先生の言う事は忘れてしもうて、言うなら途中で落としてしもうて、それこそ神様のお話といえば。
 「船にも車にも積めぬほどの神徳がある」と言われるのに、それを道に落としてしもうて、神を恨むような者があると言う様な御教えになってくるのではないでしょうか。取次者として絶えず油断も隙も出来ない。一生懸命やっているようであっても神様の目からご覧になると、こちらの方は熱心に聞きよるけれどもこちらの方は、うすらぱーあとしか聞いとらんと言う事がありはしないだろうか。と言う事を改めて思わして頂いて、昨日の研修の時にお話した事でしたけれども。
 飯塚教会の初代教会長であります、大久保隆先生大変ここへ、まだ神愛会時代から帰依、古賀ユキノ先生の本当の師匠です。ここに古賀先生をあずかった事から、大変色々教えて頂いた先生ですけれども、現在亡くなって居られません。が「大坪先生、私はこういう事を布教始める時分に頂いた。」と昨日思い出させてもらって皆んなに聞いてもらった。『神は取次者を自由にする。
 取次者は神を自由にする。これがあいよかけよぞ。神が取次者を自由にする、取次者は又神を自由にする、楽しい事じゃ。』というお言葉を頂かれたという事です。取次者として神様を自由自在に出来れる程しのお徳を受けたい、そのためには取次者自身が、どんなそれこそ血も涙も出るような場合でも、神様の仰せには、背かれんという生き方、神様大坪総一郎を自由自在に御遣いなさるようなおかげを私が頂く時に。
 私が神様を私のために神様が自由自在に動いて下さる時だ、こんな楽しい事はない。「親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行く」という事はこう言う事なんだ。とお知らせを頂かれたと言う事です。私もこう言う事に焦点を置いて精進をしなければならないが、どこの教会よりも沢山の人が助かって沢山の人がお参りをするから。もうこれでよいと言った様な思いは一つも。
 私の夢から言ったらば、もう本当にいつか神様は、あれは何と言うんですかねぇ。子供達が組み立てて作る何とかモデル、船やら飛行機とかプラモデルとか言うでしょう。神様からご覧になるとそんなもんだと。合楽がはぁこんな立派なお城の様なと言うけれどもおもちゃのようなもの神様の目から見ると。だからおもちゃじゃない本当な物を私が頂こうという意欲を持つならば。
 昨日お気付けを頂いて初めて気付かせて頂いた。こっちのは十分に言ってるけども、こっちのはうすらぼうっと聞いてると言った様な事ではおかげにならんと言う事を私自身今日は思ったわけですけれども。皆さんの場合であっても同じ事だと言う事。そして私と皆さんとが親先生を自由にする為には皆さん方が私の為に自由自在になって下さらなきゃならん、親先生任せになって下さらなければならない。そこに今度は親先生が皆さん任せになって下さる様な働きも生まれてくると言う事であります。
   どうぞ。